下水道物語 第一部
1.
プロローグ
すべての始まりはごく些細なことだった。1階のトイレの水の流れがちょっとだけ悪くなり、流したときに普段より10センチほど水位が上がるようになったのだ。あれ?とは思うものの、当然たいした危機感はない。だが、数日そのまま過ぎると、さすがになんとかした方がいいような気がしてきて夫に話をしてみた。「うん、うん、そーなんだよねー。ゴムのバッコンバッコンする奴、買ってこようか」と、いうことになり、姿も使用法もよく知られているくせに正式名称の認知度はごく低い「ゴムバッコン」を近所のDIYショップに買いに行った。
今回初めて知ったこいつの正式名称は「ラバーカップ」もしくは「通水カップ」。価格は通常は500〜600円くらいのようだが、買ったのは1500円の高級品で、ゴムのカップの下にさらに先細りのカップがつながっていてカップが完全に水中に入り、圧着度が高くていいという話のモノ。店の人には「何度も何度も繰り返しやらないとダメですよ。押す時はゆっくりでも、素早く引くのがコツです」と教わって帰った。
「何度も何度もかー。」と、その日は夫と交代交代でバッコンバッコンのしまくり。若干の改善はされたような気がしないでもない、という、顕著な効果は無いままでの終了となった。次の日も翌々日も、たいして状況に変化はない。次第にバッコンバッコンにも飽きてくるし、とりあえずは流れるので大きな危機感も持てない。なんとも中途半端な状況であった。
2.
留守中のできごと
次の土曜日、私は実家に帰っていて留守だったので、夫から聞いた話である。
実は、この数ヶ月前から、我が家の真向かいの家が建て替え新築中だった。もちろん日に何度もトラックやその他の特殊車両などが出入りしているし、下水道の工事だって当然やったはず。で、夫はこの工事が原因だということはおおいに考えられることだと、現場の人に事情を説明したのだ。工事関係者は実に親身に相手をしてくれて、下水道工事を担当した人がわざわざ来てくれたらしい。で、わかったのは、この道路には下水管が2本走っていて、ウチの下水が流れている管とお向かいの家の下水が流れている管とは別々で、従って工事中の事故などで管が詰まったということはないようだ、というのである。
というわけで、可能性がひとつ消えた。それにしても、詰まってるのは確かなこと。次には、隣の家ではどうだろうかと、連絡してみたらしい。すると隣家でも数日前からトイレがやや詰まってて、通水カップを買ってバッコンバッコンやっていたということが判明した。ウチだけじゃないんだ。ということは、やっぱりおかしいのは外の下水管。
夫は次に区の下水道局に連絡をとった。下水道局の人はすぐに来てくれたらしい。ところが、現場に到着し、地図と照らしあわせた局員は、申し訳なさそうに言ったそうである。「この道路は、どうも私道のようですね。区の下水道局では、私道の工事はできないんですよ」
そして、この近所の下水道工事を請け負ってくれる会社の連絡先をいくつか教えてくれ、帰ってしまった。
いやはや、家を購入してから約15年めにして初めて知った衝撃の事実。家の真ん前の道路が私道だったとは。買い物客もサラリーマンも学生も、たくさんの人や車が普通に通ってる道なのに。
さて困ったことになった。工事はどこに依頼しようか、と、道路でお隣さんと話をしている最中に、今度はいきなりウチの真ん前のマンホールからゴボゴボと水が噴き出してきたのだそうだ。もちろん汚水である。事態はかなり差し迫ってきた。ウチでもお隣でも使ってないのに水が出てくるということは、下水管の利用者である、坂上に位置するどこかの家の使った水がウチの真ん前まで流れてきて噴き出したということ。もはや緊急事態である。
下水道局からもらった連絡先には、すぐご近所の小さな水道屋もあれば、大手の水道屋もあった。道路を掘り起こしてのかなり大がかりな工事になりそうだから、最初から大手に頼んだ方が効率的とも思ったけど、近所のことに詳しい、古くからこの町で仕事を請け負っているご近所の水道屋に依頼することに決めたそうだ。
3.
ご近所の事情
事態がこのあたりまで進んだところで、私が帰宅した。夫とお隣さんは水道屋さんを交えて道で協議の真っ最中。工事をするにしても、私道だと相当ややこしい問題があるらしい。そもそも誰の土地なのだろうか、というところからだし。
そして、私道の持ち主および、工事をする道路に接している住宅の持ち主、みんなの了承をとらないといけない。その日は日曜日だったので、それならば月曜日の朝いちで私が法務局に行って私道の所有者を調べましょう、という話になった。
今回の補修の話はとりあえずその方向で進めるとして、この時点で、もはやできることはない。そこで、子供の頃から地元在住で、水道屋さん2代目のYさんの地元話となった。その話によると、この道路の下水道は実は40年以上前に何軒かの住人達が、初代水道屋さんに頼んで作ったモノらしい、ということがわかった。まだ民家が少なかった時代に、その場しのぎの間に合わせで作ったので、管は細いし1本の道に2本の下水管が平行して通っているし、管は割れやすい土管、さらには下水管の終点がどこに行っているかもよくわからず、もしかしたら道路ではなく民家の地所内を通過しているかもしれないという恐ろしい状況らしい。40年もたっているから、もう、いつ壊れてもおかしくない状態だ、と。
どうやらこの騒動、さらなるビッグウェイブになって延々続きそうだ。
さて、翌朝、私は予定通り法務局で今回関係ある道路の所有者を調べだした。その結果、私道部分は3つの地番に分かれていることがわかった。そのうちのひとつは最近できたばっかりの学校法人の所有で、これはたいして問題はなさそう。ふたつめは、ウチの真ん前の部分なのだが、見たことも聞いたこともない3人の共有になっており、しかも渋谷区だの西多摩郡だの遠方の方の名義になっている。おそらく以前このあたりの土地の所有者で、土地を売る際に、資産価値のない道路部分は売らずに(売れずに)引っ越してしまったといったところなのだろう。所有者達は、この私道を所有しているということ自体を忘れている可能性大である。そして、3つめ。これは大きな土地を分割して数戸にし、真ん中に共有の私道をとったという、都会ではよくある袋小路の一角。この真ん中の道が私道なのは当然としても、そこから直角に出ているT字の横棒部分の道も同じ地番になっており、そのT字の私道が十数人の所有者の共有というすさまじいもの。どういうわけだかT字エリアの住宅数よりも私道の所有者数の方が数人多いという、これもよくわからない事態になっている。
法務局でこれを手に入れた私は、思わず呆然。いったい許可をとらなくちゃならにのは何人いるのか。果たしてすぐに連絡はとれるのか。
4.
緊急の工事なので
水道屋のYさんの入れ知恵で、本来ならば許可を得なければならない人全員ではなく、ざざっと数人の印鑑と署名だけで、今回の緊急案件は動くことになった。一応ライフラインだから杓子定規なこと言ってる場合じゃないということ。この署名の使い道は、公衆用道路を工事のために通行止めにする、という警察の許可をもらうため。
地元に古いYさんは、あっと言う間にご近所を回って署名を集めてくれた。ありがたいこと。そして、それを警察に届けて工事許可をもらい、大規模な工事になるので、車両やら機材やらが揃う業者の手配と、大活躍。
まず、工事前の作業としてしたのは、壊れているのはどこかを特定し、下水の終点部を確認し、工事範囲を決定すること。これも専門の業者の専門の機材が必要らしく、トラック1台となにやら機材をともなって若いイケメンの兄ちゃんが登場した。ウチの前のマンホールを開け、そこにケーブルを通したり、水圧をかけたりの作業をしていた。そして結果はかなり暗いものになった。
下水の終点はケーブルが管のどこかにひっかかちゃって特定できず。掘らなくちゃわからないとのこと。破損部分もこの時点での特定は無理。果たしてどのくらいの規模の工事になるのか、どれだけお金がかかるのか皆目わからない状態である。なんてこと。が、まあイケメン兄ちゃんはがんばってくれてたし、下水を扱うにしては実に爽やかに作業をして、爽やかに去っていった。
5.
工事まで待機の日々
工事は、マンホールからの噴出に気がついてから1週間めの日に決定した。気がついてというところからもわかるように、実はそれ以前から噴出はしていたようなのだ。その騒ぎの前の週はけっこう雨の日が多かったのだが、道路に水でぐすぐすになった紙屑の残骸がやたらとちらばっていたのだ。ウチの前の道路はけっこう若い学生が利用しており、マナーの悪い奴が買い食いしたパンの袋などをぽいぽい捨てるなどして、ゴミは日常茶飯事。だから、「またか、これはひどい。雨が止んだら掃除しなくちゃ」と、思っていたところだった。が、この残骸はなんとトイレから流れ出たトイレットペーパーだったのだ。
考えてみれば、下水があふれるというのは、まさにこういうことなのだが、この衝撃は大きい。このことに気がついて以来、トイレが普通に使いづらくなってしまった。
で、どうしたかというと、夜中とかは仕方ないにしても、できるかぎり外ですることにしたのである。夫はすぐ近所の公園のトイレへ。私は駅前のビルまでわざわざ遠征していた。
特に大のほうは、もはや家ではとてもできない。そこで、トイレ遠征と称して出かけて行くのだが、これがちゃんと出るとは限らなくて、不発で帰ってくることもしばしば。だいたいストレスで体調も変になっちゃって、便秘気味。夫の方は食欲不振だし。
そんなわけで、工事当日が来るまでの一週間は、ふたりともそうとう心理的圧迫で体調が変になっていた。お隣でもお風呂をがまんしていたようで、当然、こちらもストレスはひどそうだった。
とはいうものの、この下水道は先ほども言ったように数件〜数十件の世帯が使っているわけで、ウチやお隣がいくら使わずにがんばったところで、トイレやお風呂の排水はどんどん流れていたんだけど。そんなわけで、家の真ん前のマンホールから排水が噴出している、という悪条件の、ウチとお隣だけが、過酷な精神的迫害にあっていたというわけ。あー、しんどかった。
6.
いよいよ待ちわびた工事
工事の当日の朝がようやくやってきた。まずやってきたトラックには「ご迷惑をおかけします・まわり道」の看板が積んであるのが見えた。その他にもトラック数台に積み込んだ特殊車両やいろいろな工事機材、作業員、交通整理要員などがどっと押し寄せた。天気はピーカン。なにもかもが輝いて見える。
意外だったのは、水道使用の制限がなかったこと。戸数が多いし、ポンプで別のラインに排水処理するので使ってもかまわない、という話だった。とはいえ、少なくともまん前で工事のウチとお隣では、トイレなんかは使う気にもならなかったけど。
通行止めの作業の後、さっそく工事が開始した。まずは「アスファルトカッター」(名称は私が適当に命名)でマンホールのすぐ脇の部分の道路に1m×3m程切り込みを入れる。この時点で、切り込みを入れた道路の一部がボコっと陥没した。これが問題の場所かも。とにかく切ったアスファルトをショベルカーでべろんと剥がす。アスファルトくずはトラックに回収。
次は剥き出した土をシャベルの手作業で掘り、たまった土はショベルカーでまたトラックに積み込む。陥没したあたりは水があふれ出しているようだ。マンホールに溜まっている汚水をポンプで別の排水ラインに流しつつ、掘り進むうちに下水管が露出してきた。恐ろしくレトロで、植木鉢みたいな質感のいかにももろそうな土管である。この土管を、マンホールの脇から2m分程とっぱらった。 そして、はずした管の先を先日のように長いケーブルようなもので探るが、やっぱり終点がどこに繋がっているのかは判明せず。だが、はずした土管の先に水を流してみるとどうやらスムーズに流れるらしい。
工事の方針は、終点がどこに繋がっているのかはわからないけれども、とりあえずこの先は今まで通り使用しても差し支えないようなので、マンホールとはずした土管部分のみを新しいものに取り換えて繋げて終了にしよう、ということになった。今度のパイプとマンホールは塩化ビニールらしく頑丈そう。
方針が定まると、後は早かった。新しいパイプを設置し、土を埋め、アスファルト舗装をし、マンホールの蓋をしっかりと作り込む。最後は会計の数字を出すために処理範囲を測定しておしまい。すっかりきれいになり、トイレを流してみてくれ、ということになった。1階のトイレは数日ぶりの通水である。水位が上がることもなく、騒ぎ以前の常態に復帰。朝1で始まった作業は、昼ちょっと過ぎくらいで収束した。
7.
その後。そして第二部は完結するのか
今回の騒動、かかった費用は合計で70万円強。アパートなどを考慮しつつこれを割り振りし、ウチが支払った金額は11万円強だった。これでも、極力工事範囲を少なく抑えた結果のことであり、今回判然としなかった終点まで延々工事してたら、膨大な金額になっていたことは間違いない。ああ、恐ろしい。それに、老朽化している土管のことだ。これからもたびたびこんなことが起こるのではたまったものではない。つまり、本格的な下水管全とっかえ工事が火急の課題ということだ。
ということで、この物語、一応「第一部」ということになっている。つまり、今回の工事はあくまでも応急処理で、本番はこれから、ということ。だが、実は問題山積。ここから先、話が進むのかどうなのかは皆目見当がつかない。
とりあえず、今回お世話になった水道屋さんのYさんが全面協力してくださるらしいので、成り行き上、ウチもこの動きにかなりの部分加わることになった。でも、ウチは十数年前に引っ越してきたばかりの新参者だから、あんまり表に出て土着のご近所の反感を買うのはイヤだから、あくまでも裏方に徹しようと思っている。なんてまあ、ややこしい話なんだろう。
とにかくうまくいっても数年後になるだろうが、すでにぼちぼちと動きが始まっている第二部が書ける日が来るといいのだけれど。
2010年6月8日